適応ってなんだ?
こんにちは。ヒミツキチ森学園のちほやんです。
今日はちょっとぶっ込んで書いてみます。
先に、少し私のことについて書かせてもらうと、
私は外にガンガン飛び出していって、実際に手と足を動かして、人と会って語って、その「場」の温度を感じて、誰かと一緒にうねりを起こしていくその「ライブ感」が大好きですし、今もずっとその温度の中に住んでいます。
コロナの影響で一瞬にして世界中が #STAY HOMEに切り替わったことで、
私自身の生活も在り方も求められるものも文字通りひっくり返りましたし、
その中で未知なる可能性にワクワクする瞬間も、やっぱり自分らしくいられないムズムズする歯痒さも共存しているような状態が続いていました。
私はこだわりも強く、決して器用な人間ではないので、求められているものにすぐさま臨機応変に「適応」するということが得意ではないし、あまり好きではありません。
私自身も、これまでの二年間ほぼ毎月行ってきたヒミツキチ森学園の「教育のミライ」というイベントがコロナの影響で開催が中止になってしまった瞬間、
オフラインで出来なくなったならじゃあオンラインでやればいっか!とは出来ず、
今本当に私たちが伝えたいことはなんだろうか。
このタイミングで教育のミライを開催することはどんな意味を持つのだろうか。
私自身今本当に届けたいものって何なのだろうか。
ということをとても慎重にそして大切にして考えた結果、
ようやく自分自身で納得して、メンバーに率直に気持ちを伝え、先週オンラインで教育のミライを開催しました。
そして今のそのまんまの気持ちを当日参加してくれた皆さんにもお伝えしました。
社会や周囲やその場で求められているものを察知できることは出来ても、
そこに「適応」するか、したいと感じるのかどうかはまた別の話ということです。
さて、今日私が書きたい本題に入ります。
適応ってなんだろう。
タイトルまんまです。
誰かが求めていること。世の中が求めていること。もっと言えばそれが「正解」だと示されていること。
ハッキリ言ってしまえば、ここに適応し順応してしまった方が楽です。
世間から叩かれることもないし、非難されることもないし、マイノリティ故の悩みもなくなる。
でも私はいつも思うんですね。
「その当たり前は誰にとっての当たり前なのか?」
「自分の心はなんと言っているのか?」
今ある社会の仕組みに順応すること、今ある学校の枠組みに適応すること。
それも才能だと思っています。
でもそこで大切な何かを掌からこぼしていないかどうか、一度立ち止まってみて欲しいんです。
自分以外のみんながYESだと言っても。
自分の意見だけが孤立してしまっても。
周りと違うと後ろ指をさされても。
自分のどまんなかにあって皆さんが大切にしているものは、自分自身です。
自分自身を押し殺してまで、周りに適応しなくたっていいと私は思うんです。
そうやって私も何度も自分を殺して、たくさん迷子になってきましたから。
自分の信念を持ち続けるって、結構大変なことです。
理解して欲しいし、賛同されたら気持ちもいい。
でもやっぱり自分の中の心地いい場所って、誰かが決めた「当たり前」の中にないことだってある。
そんな自分の中の大切にしている「当たり前」も、ちゃんと大切にしてあげて欲しいなぁと、自分に言い聞かせる気持ちで今日これを書いています。
もしかしたら、これを今読んでくださっている皆さんのお子さんや、周りのお子さんの中にもこれと戦っている子がいるかもしれないなぁと思い、今日はそんな子どもたちに向けてこんな言葉を届けたいなと思います。
お子さんと一緒に読んでいただいたり、お子さんにこの画面を見せていただけると嬉しいです^^
そしてもし今何か皆さんにピンとくるものが少しでもあるなら、是非一度ヒミツキチ森学園の授業に遊びにきてみてください^^
(最後にイベントのリンクも貼りますね)
いつでも大歓迎です^^
今これをよんでくれている きみへ。
いま、「コロナウイルス」というものの えいきょうで、せかいじゅうで ものすごい いきおいで「あたりまえ」というものがへんかしている。
もしかしたら きみのまわりでも そうかもしれない。
あたりまえに、まいあさ がっこうにいって ともだちとあっていたのが、いまはパソコンをつかって「オンライン」というものをとおして ともだちとあっているかもしれないね。
あたりまえに、いつもはそとにでてあそんでいたけれど、いまはおうちですごすじかんが ふえているかもしない。
「あたりまえ」ってなんだろう?
「あたりまえ」ってだれがきめているとおもう?
いま、きみのまわりにある「あたりまえ」はきみにとって「ここちいい(きもちいい)」ものかな?
もしかしたら、きみのおとうさんやおかあさんは、いまある「あたりまえ」のなかで、
きみよりながくすごしてきたから、
あたりまえのなかであたりまえにふるまうと、
きみのことをほめてくれるかもれない。
きみのせんせいもほめてくれるかもしれない。
「あたりまえ」のことをできるっていうことも、たしかにすごいことなんだよ。
でも、ひとつだけぜったいにわすれないでいてほしいことがあるんだ。
もし、いまきみのまわりにある「あたりまえ」が、すこしいやだなってかんじたり、ちょっとじぶんとはあわないみたいだ、とかんじたら、
そのきもちはだいじにしていいんだよ。
くちにだしたっていい。ことばにしてもいい。
ぼくはこれいやだなって いってもいいんだよ。
よのなかのせいかいと、きみのなかにあるせいかいは、ちがったっていいんだ。
みんなちがうことが「あたりまえ」なんだよ。
みんなおんなじじゃなくたっていいんだ。
じぶんの「あたりまえ」をだいじにしていきることは、「じぶんをいきる」ってことなんだよ。
じぶんをだいじにできるから、まわりのみんなのこともだいじにできるんだ。
いまこれをよんでくれているきみへ。
なにがあっても、いつどんなときでも、これをかいているちほやんは、
きみのどまんなかにあるものを おうえんするし、
きみの「あたりまえ」をたいせつにすることを やくそくするよ。
みんなとおんなじじゃなくても。
きみが、じぶんは みんなといっしょに なにかじょうずにやれないなと かんじていてもだよ。
そんなことはかんけいないんだ。
ちほやんはいつだって、ヒミツキチもりがくえんから、いまをがんばっていきているきみにエールをおくって、おうえんしているよ。
いつかこれをよんでくれている きみと、
きみのなかにある たいせつなたからものの はなしができたらいいな^^
さいごまでよんでくれて ありがとう。
ちほやんより
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