パッケージ化しない学びを
木曜日は、アートの時間(ごかんのじかん )がありました。火曜日に近くの海岸で拾ってきたもので、「海を表現する」時間。
スタートはある子の「風鈴作りたい!」でしたが、例は見せたものの、みんなで好きなものを作ろうということになりました。
ボクも、海のものを使ってアートを楽しみました。
素敵な作品がたくさんできあがりました。
ふと気づいたのは、みんな違うものを作っているじゃん!ってこと。
一緒のものを作ろうじゃなくて、「海を表現しよう」だと、みんなが豊かに作品作りを楽しめているなぁと思ったんです。
ボクが先生をやっていた頃感じた違和感の1つに、図工の時間があります。
※くれぐれも学校教育を批判しているのではありません。
図工の時間って、みんなで作るものが一緒ですよね。大枠が決まっていて、個性はその中身の表現で決まる!って感じでした。
でも、作るのが同じものだと、子どもたちは優劣を気にしてしまいます。
「〇〇ちゃんのがうまいなぁ。」
「それに比べてボクのは…。」
「真似したらなんて言われるだろう。」
この悲しさに耐えられなかったのが、青山少年で、小学校4年生の時に、作っていたステンドグラスを担任に酷評され、投げ捨てた記憶があります(笑)。当時の成績は5段階で1でした。
ボクが図工大嫌いだった理由は、好きで作っているものを評価されるようなシステムだったからだと思うんです。そのシステムが生まれてしまうのも、同じものをみんなで作っているからだなぁと。
ちょっと前の時代は、「みんなで同じものを大量に効率よく作れる人であること」は疑問にならなかった。でも今はそういう人が求められているのではありません。
「自分の個性をどう磨いて、どう武器に変えていくか。」
「自分のどまんなかで生きる」とはどういうことかを知っていて、たくさんのそういった経験を積んだ人が求められているんじゃないか。
そう思うんです。
これ、本当にヒューマンエラーじゃなくシステムエラーだと思います。先生たちは常に一生懸命です。
みんな同じものの方が、大人数の中だと教える内容を厳選できて、効率がいいんですよね。でも、パッケージ化されて同じ棚に並んだこの学びって本当に効率がいいんでしょうか??
ここじっくり向き合いたいんです。
みんなで同じものを作り、同じものを学ぶって、本当の意味で効率がいいんでしょうか?
何かそこからは大事なことが抜け落ちていないでしょうか。
ボクみたいな、劣等感に苛まれる子もきっと多いんだろうなぁと思いました。
「学びをパッケージ化しない」
簡単じゃないけど、そこに向き合い続けたいです。
放課後、鎌倉へ車を走らせながら、校長のちほやんが
「あおちゃん、アート好きになった?」
って聞いてくれました。
「別のもの作っているあの空間が好きだよ」
って答えました。
本当にその空間は好きで、無理がなく、みんな生き生きと発表をしていました。
そしてある方との話の中で、
学びって大人が作り出して渡すものじゃなくて、大きな経験の中から必要となって生まれるものだよなぁと、改めて再確認しました。そのためのワールドオリエンテーションですよね。
今週も「帰りたくなーい!」が響いていた現場からは以上でーす!
来週から15時まで授業です。ワクワクしかない!
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